法話 82号8月・9月 発行
「過去は変えられる」
西川 正晃
「覆水盆に返らず」という諺があります。一度起きたことは元に戻すことができないことを意味する中国の諺です。家を出て行った妻が、元夫が昇格したのを見て復縁をせまったとき、男が「地面にこぼした水を盆の上に戻してみよ」と言ったことが由来とされています。元には戻り得ない自然現象を使って、復縁はないことをさとしたのです。この諺にあるように、一度起きてしまったことはいくら悔やんでも変えることはできないと、私たちは思い込んでいます。本当に変えることはできないのでしょうか。なぜ変えることができないと思い込んでしまっているのでしょうか。
私自身、水がこぼれたとき、掃除しなきゃいけない、面倒くさい、大変だ、汚れたイヤだ・・・等いろいろな感情が出てきます。どの感情をとっても、すべてが自分勝手な理由です。この自分勝手な理由こそが、過去を変えられない大きな理由があるのだと感じます。親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』という偈文の中の一句に「邪見憍慢悪衆生」があります。私たちは正しく物事を見ることができない姿を指摘しておられます。邪見とは、真理にそむいた見方・考え方のことで、自分がいつも一番正しいと思っているよこしまなものの見方をする人のことです。自分の考えに固執して、仏の願いは聞こえないままになってしまうのです。驕慢とは、おごり高ぶりの姿のことです。自分の知恵や財力にうぬぼれ、人の話を素直に聞こうとしない人です。このような人は、自分の力を過信して思い上がるので、仏の願いが届いても聞き流してしまうのです。私たちはこのように、事実を偏見なしに見つめることができない存在で、私は苦しみを自分の外側のせいにばかりしているのです。苦しみを生んでいたのは私自身なのに、切り離すことのできない「自分」と「自分の外側(他者・社会)」を切り離して考えてしまい、その結果、「一方的な恨み」へと発展し、他人への責任転嫁と、怒りの置き換えにつながっていくのです。最近、インターネット上では、「無敵の人」という言葉が登場しています。社会的に失うものが何も無いために犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するもので、2008 年頃に 2 チャンネルの創始者である西村博之氏【通称、ひろゆき】が使い始めたインターネットスラングです。最近の社会をみると、自分の苦しみを一方的な恨みに変えて起こす事件が増えてきている気がします。
親鸞聖人は、35 歳の時、流罪という法難に遭われました。流罪の配所である越後へは、過酷な旅であったといわれます。福井、石川・富山の険しい山越えや、断崖に激しく波寄せる親不知子不知の海岸(新潟)など、多くの難所が待ち受けていました。特に親不知子不知の絶壁は、荒れ逆巻く海が足下に迫り、まるで海岸線にそそり立つ屏風のようです。大波が絶えず岸壁を洗い、親は子を、子は親を顧みる余裕もないので、この名がつけられたといわれます。命の危険にさらされる道中を過ぎると、流刑の地での過酷な生活が待っていました。そんな苦難を親鸞聖人は、どう受け止められたのでしょうか。その時のお気持ちをうかがい知ることができる一節が『御伝鈔』に綴られています。
「抑また大師聖人もし流刑に処せられたまわずば、我また配所に赴かんや。もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり。」(『御伝鈔』)
訳すると、「恩師・法然さまが、もし土佐への流刑に遭われなければ、この親鸞も新潟に流されることはなかったろう。もしそうならば、どうしてこの土地の人たちに阿弥陀仏の本願をお伝えすることができただろう。ひとえにこれ、お師匠さまのご恩の賜物。親鸞、喜ばずにいられないのだ」と述べられ、流罪という悲劇を心から喜んでおられるのです。もしこの私が同じ境遇に遭ったとしたらどのように感じるでしょうか。少なくとも感謝の言葉は決して出てこないと思います。しかし、親鸞聖人はこの逆境に感謝されています。心からの感謝の気持ちがにじみ出ています。
確かにこぼした水は元に戻すことはできないかもしれません。しかし、水をこぼしたことの意味は変えられるのではないでしょうか。 「悲しい」「悔しい」「腹立たしい」出来事は、自分の心が反応して創り出した感情なのです。自分の心を変えることで、過去の辛い経験は、私を育ててくださった経験に置き換わり、苦しみは消えていくのです。自分の生き方って、素敵だなと思える生き方をしてほしいと願いをかけておられるのが「南無阿弥陀仏」の呼び声なのです。阿弥陀さまは、過去に未練を感じる生活から決別し、過去の意味を、今を生きていく原動力に変えることができるように、励まし続けてくださっています。