法話 第66号 令和元年12月・令和2年1月発行
回向とは
蜷川 祥美
浄土真宗の熱心なご門徒のみなさまは、朝晩お仏壇で、『正信念仏偈』・『和讃』(六首引)・『回向句』をお勤めします。
『正信念仏偈』とは、親鸞聖人が著された『顕浄土真実教行証文類』行巻末尾の偈を別出したもので、お念仏によってあらゆるものを浄土に往生させてくださるという阿弥陀如来の教えと、その教えが、インドの龍樹菩薩、天親菩薩、中国の曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、日本の源信和尚、法然聖人の七高僧によって私たちのもとに伝えられたことが述べてある詩です。
『和讃』(六首引)とは、親鸞聖人が阿弥陀仏の教えを日本語でやさしく詠われた詩集である『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』の「三帖和讃」のことで、その中から六首とりあげて歌います。
『回向句』とは、善導大師の『観無量寿経疏』の冒頭に詠われる「帰三宝偈」の末尾の詩です。漢文で書かれていて、
願以此功徳〔がんにしくどく〕 平等施一切〔びょうどうせいっさい〕 同発菩提心〔どうほつぼだいしん〕 往生安楽国〔おうじょうあんらっこく〕
(『浄土真宗聖典全書』1 三経七祖部・656頁)
と読みます。
これを書き下しますと、
願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。 (『浄土真宗聖典 七祖篇 註釈版』・298頁)
となります。
回向とは、「自己の善行の結果である功徳を他に廻らし向けるという意味」(『岩波仏教辞典』)の言葉です。
ここで示される「自己」を、修行をして、煩悩を断ち切って仏となることを目指す方々のことであると理解するなら、『回向句』は、修行をして自らの性質をよいものにして、その結果をすべてのものに施し、他者とともにさとりを求める心をおこし、阿弥陀如来の浄土に往生したいという決意を述べたものとなります。
しかし、浄土真宗は、修行のできないものも含めてあらゆるものが、阿弥陀仏の心に気づき、報恩の思いから念仏を称える生活を送れば、浄土に往生できるという教えです。浄土真宗のご門徒が、日々お勤めする『回向句』は、自らが修行をすることを前提にした意味で用いられているのではありません。
阿弥陀如来が、永い修行の結果、あらゆるものを浄土に往生させて仏とするための手段、すなわち念仏を私たちにお与えくださったので、みなでその教えに出逢って、阿弥陀如来のはたらきにおまかせして、浄土に往生させていただき、さとりを得させていただきましょうという意味で称えるのです。
浄土真宗のお勤めの意義は、阿弥陀如来の功徳をほめる言葉を称えることにあります。永い修行の結果得られた阿弥陀如来の功徳は、修行のできないものも含めたすべてのものを仏としようというすばらしいものです。自分にゆかりのある特定の人々のしあわせのみを願うといったせまい心ではなく、あらゆる人々にしあわせになってほしいと願うひろい心なのです。その功徳をほめる行いができるものは、人間が目指すべき理想の生き方を学び、さとりを目指す日々を送るものです。
日々の生活の中で、理想の生き方を忘れ、自分の利益のみを基準に行動してしまうことの多いわたしたちは、せめて朝晩のお勤めの際に、阿弥陀如来のような理想の生き方を思い出し、自らの心のありようを恥じつつ、理想に向かって生きていくことを常に再確認できるよろこびを感じながら過ごしたいものです。