法話 第54号 平成29年12月・平成30年1月発行
~合掌ができない大人たち~
河智義邦
学内の勤行の時間に担当した法話の中で、地蔵盆の慣習を取りあげ、「合掌ができない子どもたち」というテーマでお話しさせていただいたことがありました。これは本願寺出版社の編集長をされていた三上章道氏の著書『合掌ができない子どもたち』を読んで、現代の子どもたちの宗教心について考えさせられることが多かったという内容でありました。
ところで、最近テレビのCMに歌手で俳優の中村雅俊さんが出演されていて、バックに流れていた歌がみょうに耳に残りました。調べてみると、その歌は中村さんが作られた『どこへ時が流れても』という曲で、「人は人で生まれたんじゃない。人になるため生まれたんだろう」という歌詞が、私がみょうに気になるフレーズだったのです。
医師で仏教思想研究者の田畑正久先生に教えていただいた話になりますが、幼児期に病気の影響で視力と聴力、言葉を失う三重の障害を持ちながらも福祉活動などに尽力した米国人のヘレン・ケラーさんは「言葉を知る前は動物的な暗黒の世界を生きていた」と仰っていたそうです。言葉を知り、教育を受けることで、飛躍的に人格が養われたと思われます。これは、人間は育つ環境によって動物的になったり、人間的になったりするということです。
仏教では私たちの心の状態を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)で表現しています。人間とは「間柄を感じ、多くのおかげさまで生かされている、支えられている」と感じることができる存在で、餓鬼や畜生は「欲しい」ということだけに心を奪われ、飼い主の意向に縛られ主体性がなく本能のままに行動するような存在を言います。
ある関東の小学5年生35人が社会見学でお寺を訪ねた時に、ご住職が「お家のお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんが食事の時に手を合わせるのを見たことがある人はいますか」と尋ねたら、全員が見たことがないと答えたそうです。
はじめに述べたように、現代の子どもが合掌できない原因は、子どもさんにあったわけではないのです。三上氏は、合掌は「自己を見つめる・他を思う・感謝」の表現であり、そもそも日本人にとって、宗教行為の基本動作であると仰っています。また、田畑先生は、「植物や動物のいのちを頂き、酸素や水のお陰で生かされているという気付きや目覚めがなく、そのことを当たり前と考える現代の家庭環境や社会状況は人間を育てるのではなく、餓鬼・畜生を育てているのではないかと危惧します。」と述べておられます。もちろん、合掌しない人すべてが「おかげさま」の心を持ち合わせていないとは思いません。たかが合掌、されど合掌です。そのかたちによって伝えられていく「かたちなきもの(心)」があることは確かです。
そして、このことは他人事ではなく、私の中には、確かに「人間」でいられるときもあるけれども、ご縁によって餓鬼性、畜生性が顔をのぞかせます。お寺で法話を聞いているときだけでなく、生活の中で、欲に囚われ、私の中に潜んでいる餓鬼性や畜生性に気づいた時、それが仏の智慧の視点をいただいている時であり、仏の働きが及んでいる時処であって、その場を浄土というのです。
親鸞聖人は、『教行証文類』信文類に次の涅槃経の文を引用されています。
慙は内に自ら羞恥す、愧は発露して人に向かう。慙は人に羞ず、愧は天に羞ず。これ を慙愧と名づく。無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす
「おかげさまで」と、自らのいのちや人生に関わってくれているもの(者、物)に謙虚になれる存在が「人間」であり、そのことを「当たり前」のことと受け取ってしまっている存在が「畜生」なのでしょう。私の中に「餓鬼」や「畜生」が顔を出すときもあります。日常生活の中で、合掌・称名することは、つねに「人に戻れよ」「人と成れよ」と読んでくださる如来様の声のような気がします。お念仏が口に出ない人も、せめて合掌を大切に相続してもらいたいと思います。