法話 第46号 平成28年8月・9月発行
苦を乗りこえること
蜷川 祥美
仏教に四法印(しほういん)という教えがあります。そのうち「一切皆苦印(いっさいかいくいん)」とは、真理を悟っていないものにとって、この世に存在するものすべては苦をもたらすことを示しています。
本学の必修授業「宗教学」でこのお話をすると、「いや、そのようなことはない。この世には楽しいこともあるじゃないか」という疑問をもたれる学生さんもいらっしゃいます。 仏教では、「苦」を身心を逼悩(ひつのう)するもの、すなわち、身と心を圧迫し悩ませるものと定義し、「苦受」すなわち苦を感じる感受作用について、思い通りにならない対象に対して生じるものと考えます。
また、その分類もさまざまで、寒さ、熱さ、飢え、渇きなどを不快に感じる「苦苦(くく)」、好ましい状況が壊れることを不快に感じる「壊苦(えく)」、この世に存在するものが変化することを不快に感じる「行苦(ぎょうく)」の三苦があったり、生まれることを不快に感じる「生苦」、老いることを不快に感じる「老苦」、病いを不快に感じる「病苦」、死への恐怖を不快に感じる「死苦」、さらには、愛しいものとの別れを不快に感じる「愛別離苦(あいべつりく)」、恨み憎しむものとの出会いを不快に感じる「怨憎会苦(おんぞうえく)」、求めても得られないものがあることを不快に感じる「求不得苦(ぐふとっく)」、身心がはたらいて変化することそのものを不快に感じる「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の八苦などの分類があります。
これらは、自分自身や自分の周囲のものが変化するため、好ましい状況が続かなかったり、好ましくない状況が起きてしまうと感じるところから生まれるのだと思います。
地球上にはさまざまな生物が活動し、環境は常に変化し続けています。気温も変化し、それによって作物の収穫にも変化が生じます。ときには、食料が不足し、飢えを感じる場合もあります。愛し合い助け合って生きてきた家族ともいつかは別れなければいけませんし、自分にとって苦手な友人と同じ教室で授業を受けなければいけないことがあるかもしれません。また、いつまでも健康で、ストレスもなく勉強やバイトができ、常に成績も良好で、バイト代が上がり続けるなどということもありえないでしょう。
この世のあらゆるものは、周囲との関わりによって変化し続けながら存在しているのです。それなのに、私たちは永遠に変わらない自分を夢想し、自分の所有物が変化しないことや、増え続けることを願って生きています。それがかなわないと知る時に、苦を感じるのです。私たちが楽しいと感じる良好な体調もやがて崩れ去りますし、幸福感に満ちた愛しいものとの生活も永遠には続きません。それらは一瞬の楽しみにすぎず、すべてが苦にいきついてしまう。それが「一切皆苦印」の意味することです。
また、その苦の原因は、変化し続けている私や環境であるという真理を認めたくないという思い、即ち「我執(がしゅう)」によって生み出される「愚痴(ぐち)」や、むさぼりの心である「貪欲」、さらには、思い通りにならないことに怒りを覚える「瞋恚(しんに)」などの「煩悩(ぼんのう)」にあるといいます。「煩悩」とは私の心の悪いはたらきなのです。
これは、心の持ちようによっては、苦を乗りこえることができるかもしれないということを教えてくれてはいないでしょうか。たとえば、変化する自分や環境を楽しむことができ、あらゆるものを手にすることができるなどという夢想を捨て、思い通りに人生をあゆむことなどできないのが当然であると知っているなら、苦を乗りこえて生きていくことはできるはずなのです。また、私たちは病気になった時に、思い通りに動けないことに苦しみを覚えます。しかし、別の見方をするならば、病気を心配し、看病をしてくださる方々の存在に気づけるならば、そのありがたさにしあわせを感じることができるかもしれません。私を支えてくださる多くの方々の存在に気づくことは楽しいことに他ならないのではないでしょうか。また、財産を増やすことを願って生きていても、その使い道に無知ならば、貯めることのみに執着してかえって苦しみが増すことに気づき、他者のために財産を寄付したりすれば、周囲の方々の笑顔が自らもしあわせにするかもしれません。そして、自分の至らなさを叱ってくださる方の存在を、自らがよりよく変化するきっかけを与えてくださった恩人と感じることができたなら、それも楽しいことになるはずです。
ただし、こうした苦しみや楽しみも、変化し続けるこの世での一瞬の感情にすぎません。 仏の心の楽しみは変わることのない真理をさとることによって得られるものなので、決して変わることのないものであるといいます。一瞬一瞬の思いで苦しみや楽しみを感じる不安定な心を恥じ、変わらぬ心、すなわち仏の心を目指すことこそ、真に苦を乗りこえることになるのです。
仏教において「一切皆苦印」やその原因となる「煩悩」の教えが説かれる意義とは、変化する自身や周囲の環境をしっかりとうけとめ、その苦の原因を解消する道を見つけて、変わることのない楽しみを求める生き方、すなわち真実の生き方を求めようとする心を育むきっかけとなるのです。