お知らせ
法話 84号 12月・1月 発行
ワールドカップに出場した選手やサポーターが試合後、ロッカールームやスタジアムをきれいにしていくことを世界が日本人のマナーのよさ、礼儀として高く評価されています。
それを違った角度から見てみましょう。
<ワールドカップでの試合終了後の選手やサポーターの清掃>
今回のW杯の各試合でも、また他の大会でも、勝ち負けにかかわらず、試合後、選手がロッカールームを清潔にしてスタジアムを後にし、またサポーターもゴミを清掃して帰っていくことが世界に報じられ、日本人のマナーが称賛されています。ロッカールームには折り鶴も置かれていました。
この日本人の清潔さ、清潔好きへの評価や称賛はサッカーの試合後の清掃のみではありません。
海外からの旅行者によって、日本の都市や町、村、道路、そして電車、新幹線がすべて非常に清潔であることが称賛をもって語られています。
また、小学生が自ら教室の清掃活動をすることも、海外から驚きと感銘をもって語られ、中東のテレビでは非常な称賛とともに紹介されています。
むろん、すべての日本人が清潔にしたり、日本のすべての場所が清潔であるわけではありませんが、概して、日本人は清潔好きであるといえ、特に他人の所有物や他人に返すものは清潔に使う、清潔にして返すという傾向が強いと言えましょう。
ですから、日本人の何事も清潔にする姿勢は、普遍性があると見てよいでしょう。
<歴史的にも日本人は清潔好き>
日本人の清潔好きは、すでに戦国時代に訪れた宣教師によって指摘され、日本人は、建物、道具、衣服、食事、仕事をすべて清潔にし、清潔な場に来訪者を迎えるのが礼儀であり、日本人にとって、不潔さは絶対に耐えがたいことであると述べられています。
清潔好きは、日本人のもって生まれた本能、感性ということがわかります。
新型コロナウイルスで、手洗いや消毒が呼びかけられましたが、なんの抵抗もなく受け入れられたこともそのためで、日本人にとって自然な行為だったからです。
<日本人の清潔好きは本能であり感性であり宗教>
お世話になったロッカールームやスタジアムを清掃し清潔にして返すということは、相手に対する感謝の形になり、日本人持つ感覚です。
また同時に、日本人の持つ宗教的な神道的感覚でもあります。神道は日本人の生活様式、価値観の総体が宗教になったものであり、故に教義も、戒律も、善悪の基準さえもありませんが、まさしく日本人の価値観、生活様式の象徴であり、故に重要なことは清らかさです。
清めると、そこから不思議な力が生まれる...つまり、清潔さに神聖さと力を感じるということで、これが日本人の持っている感性であり感覚であり価値観です。
ロッカールームやスタジアムの清掃は、この感謝と神道の感性の2つが重なった行動といえ、試合が終わったあと、相手への感謝を込めてもとのきれいな状態にして返す、しかも清潔な神聖なものにして返すということになります。
ですから、日本人が清掃をするという行為は、マナーや礼儀もありますが、そこには相手への感謝の気持ちの表現と、同時に清掃そのものよりも、清掃の結果に出現する清潔さ、きれいさに重きがあり無意識に神聖性を見だしている感性があると言ってよいでしょう。
外国の人には、この感性や感覚、生活上の価値観がありませんから、清掃という行為そのものが礼儀やマナーにかなっていることからの理解になります。
<むすび>
このように日本人が清掃をし、何事も清潔にすること、清潔好きであることは、マナーや礼儀もありますが、マナーや礼儀、善悪を越えた相手への感謝の行為、さらには清潔さに神聖性を感じるところに日本人の特性があります。
選手の誰もが、異論をとなえず皆が協力してロッカールームを清潔にし、折り鶴を置き、サポーターがうちそろって清掃活動する姿は、文化の異なる外国の人の目からは、教育のなせるわざとか、民度と言われますが、むしろ、日本人の持つ感謝の表現、本能的に持つ神道的感覚・価値観であり、それが海外の人には少々理解できにくいため、マナーや礼儀、あるいは教育、民度という理解となるのだと思います。
日本の仏教寺院も例外ではなく、一般の人が思い浮かべる印象は、御住職が掃除をされている姿であったり、修行僧といえば、廊下の拭き掃除をしている姿であるのも同じです。
それは、仏教の身器清浄(自分の身体も環境世界も清らかにする)の教えもありましょうが、それを日本人が容易に自然に行い達成することができるのも、上と同じ感性のなせるわざだと思います。
このように、W杯での選手やサポーターの清掃は、日本人の感性からは、礼儀やマナーを越えた相手への感謝の表現であり、同時に神聖性に至る行為なので抵抗なく、むしろ当然、かつ積極的に、また思わず出てしまうこととさえ言えましょう。
クロアチアとのPK戦で敗退した後、それでもなお、森保監督のサポーターへの深々とした深い礼もまた自然に出る感謝の姿であるといえましょう。