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第43号 平成26年9月・10月・11月発行

水火二河のたとえ

蜷川 祥美

 「水火(すいか)二河(にが)のたとえ」とは、阿弥陀仏の浄土への往生を願う衆生(しゆじよう)が、信心を得て浄土に至るまでを譬喩(ひゆ)によって表したものです。中国浄土教の善導(ぜんどう)大師(だいし)が著された『散善義(さんぜんぎ)』に説かれています。これは以下のような内容です。

 ある人が善き友との再会を果たすために西に向かって独り進んでいくと、無人の原野に突然として水と火の荒れ狂う二つの河が現れます。火の河は南に、水の河は北にあり、河の幅はそれぞれわずかに百歩ほどですが、深くて底なしで、南北にほとりがありません。ただ中間に一筋の白道(びやくどう)が見つかるのですが、幅は四五寸で、水や火が常に押し寄せているといいます。

 そこへ後方・南北より群賊(ぐんぞく)や悪獣が殺そうと迫ってきます。往(ゆ)くも還(かえ)るも止(とど)まるも、どれひとつとして死を免れ得ないような状況に陥ってしまいました。しかし、思い切って白道を進んで行こうと決意した時、東の岸より「この道をまっすぐに行きなさい」と勧める声が、また西の岸より「ただちに来なさい。わたしがあなたを護(まも)ろう」と呼ぶ声がします。東の岸の群賊たちは危険だから戻れと誘いますが、顧みず一心に疑いなく進むと西の岸に到達し、さまざま困難を離れ善き友と再会することができたというのです。

 まず、無人の原野とは、人生の方向性を示してくださる先生に遇わないことを意味しています。次に、火の河とは、私たちの怒りや憎しみの心、水の河とは、私たちの貪(むさぼ)りや愛着の心を意味します。そして、白道とは、阿弥陀仏の浄土への往生を願う信心、つまり私たちに与えられる阿弥陀仏の真実の救済の心を表しています。これらの譬喩は、仏教の教えに出会わず、怒りや憎しみ、貪りや愛着といった自らの煩悩に苦しめられたままで、阿弥陀仏の真実の心に出会うことをためらう人間のすがたを示しています。

 また、群賊とは、仏教の教えを誤って理解する心や、人生の目的を誤ってしまう私たちの心を意味していますし、悪獣とは、自分中心の心で、周囲のものを自身にとって都合の良いものと、悪いものに分けて判断したり、自らの命や他者の命、さらには自らが所有するものを永遠に変化しないものだと誤って認識するような心を意味します。私も含めてこの世に存在するあらゆるものは、常に変化し続け、いつかはかなくなくなってしまいます。なにひとつとして、本当の意味で頼りになるものではないのです。こうした真理に気づかず、自らにとって都合の良いものばかりを追い求め、それが失われる際に苦しみ、都合の悪いものを遠ざけようとして、それがかなわいとなると苦しむといったことを繰り返しているのが私たちのすがたなのではないでしょうか。

 旅人が、白道を進もうと決意したきっかけとなった東の岸からの「この道をまっすぐに行きなさい」との声は、迷いの世界から真実の道を歩めという釈尊のはげましを意味し、西の岸からの「ただちに来なさい。わたしがあなたを護ろう」との声は、浄土からの阿弥陀仏の呼びかけを意味します。こうした声にはげまされ、たどりついた向こう岸は、阿弥陀仏の浄土だったのです。そこでは、信心を得て先に浄土往生を果たした善き友が待っており、ともに仏と成って思い通りに人々を救済することのできる理想の心が完成するということを示しているのです。

 このたとえは、私たちが阿弥陀仏の救いを信じることの困難さをあらわすものであると同時に、ひとたび真実の信心を得たものは、必ず浄土往生を果たし、仏と成ることができるという確かな道を示し、私たちを勇気づけてくださっているものなのです。一瞬にして消え去ってしまうはかないものを所有していると錯覚し、一瞬の喜びや悲しみに右往左往している私たちは、永遠に変わることのない真実の道、すなわち仏の心を、ためらうことなく願うべきではないかと思うのです。